袋小路の男/アーリオ・オーリオ

ニート」について書いた際、ますぼんさんにおすすめしていただいたhttp://d.hatena.ne.jp/punch-zaru/20100529/1275150230 「袋小路の男」やっと読みました。最高ですね。爆笑。爽快。
袋小路に住む、人生も行き詰ってる男と、彼を想いつづける主人公の、出口はないけど湿っぽくない関係のはなし。「恋人未満家族以上。それってなんなんだ。」「出会ってから十二年がたって、私達は指一本触れたことがない。厳密にいえば、割り勘のお釣りのやりとりで中指が触れてしびれたことがあるくらい。」

袋小路の男 (講談社文庫)

袋小路の男 (講談社文庫)

主人公の一人称で語られる「袋小路の男」と、おなじ二人の関係を、「男」=小田切孝の一人称と三人称の視点から書き直した「小田切孝の言い分」、あとまったく関係ない短編「アーリオ・オーリオ」の3作が収録されてます。
松浦寿輝せんせいの解説から引用「微妙な距離を絶えず堅持し、あるいはそれを絶えず新たに作り出し、自分の周囲の世界を潔癖ですがすがしい姿に保つこと」。絲山秋子さんの小説は、みんなア・プリオリに孤独。登場人物たちはお互いの距離をちゃんとみつめて、もたれあわずに自分の足で立っていて、かっこいい。
「アーリオ・オーリオ」のさいごの場面、投函することのできない手紙を紙ひこうきにして窓から飛ばし、(ここで終わっちゃったら携帯小説なのだけど、絲山秋子さんはそれをきっちり回収する。)「道に落ちて息絶えた紙飛行機を拾ってポケットにねじ込み、明るい通りの方へ歩き出した」。この文章を読んだときわたしは、三木清の「孤独は山にはなく、街にある」ということばを思い出した。部屋にひきこもってひとりでいることが孤独なのではなく、人と関わって距離を感じとることが孤独。ちゃんと街の中で人のあいだでやっていくこと。孤独に対する諦念でも嘆きでもなく開き直りでもなく、当たり前に孤独。
松浦寿輝せんせいは「アーリオ・オーリオ」読むと頭の中にこの曲が流れるんですって

気障〜!! どうかしてるぜ!!
「アーリオ・オーリオ」といのはパスタです。唐辛子とニンニクとオリーブオイルだけでつくります。麺!

わがやで実った唐辛子

冷蔵庫の横につるして乾燥させたものをつかいました

なにせシンプルな料理なので、きっとオイルが肝心!と、ちょっと高級なオリーブオイルをDEAN&DELUCAで購入。VENTURINO、って書いてある。

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以下、「袋小路の男」の感想です。長いです。はてなブロガーらしく「たたみます」ってやりたいのですが、たたみ方がわからないので、読みたい方だけどうぞ。

エピグラフにあることば「女に対してすることは三つしかないのよ」「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」のとおり、一話目の「袋小路の男」では、主人公の「女」が、「男」を文学に変えて、ひとりよがりに片思いしている。「あなたにとって私は何なのだろう。自分のことをのっぺらぼうに感じるのはそういうときだ」「結婚はしないのに、葬式はするのだ。私はあなたの骨の小さなかけらをひとつだけくすねることを考える」「あなたが私の車に乗ると、とてもいい匂いがした。嗅いでいることが恥ずかしくて煙草をひっきりなしに吸った」・・・なんて乙女な妄想。45ページ(文庫版で)の「なんない。」までのあたりとか、ものすごい疾走感。
これだけでもじゅうぶん興奮しながら読んで楽しめるのだけど、絲山秋子さんはこの乙女のひとりよがりをぶっ壊すかのように、次の「小田切孝の言い分」で、二人に名前を与え、その関係をもっと生々しく書き直す。「男」は「女」が考えているほどクールじゃないし、EDだし、「女」である大谷日向子は友人から「あんた可哀想な女演じてない?」とまで言われる。
前半の「文学化」された男を現実的なところにひきずりおろし、それでもちゃんとお話にしちゃう、絲山秋子さんの文学というかこれはもう、ロックだと思いました。感想文おしまい。