かぐや姫の物語とお花見弁当
いまさらですが、3月に放送された「かぐや姫の物語」について。
娘にはむずかしいかな?と思いながら一緒に観たのですが、とても気に入ったらしく、何回もくりかえし観たがり、劇中のわらべ歌「鳥 虫 けもの 草 木 花」を気に入って口ずさむほどでした。(何回おしえても「とり ぶし けもの」になっていましたが)
さらっと観ただけでは消化しきれないものが自分のなかに残ったので、こちらを読んでみました。
高畑監督やプロデューサーへのインタビューを読むと、いかに技術的に大変だったかがよく分かるのですが、逆にわたしのような素人には、説明されないと大変さが具体的にわからなかったので、それが惜しいような、でも観たときに感じた「すごいな」っていう漠然とした感覚があったのでそれでいいのか?
一番胸を打たれたのは、高畑監督の「ファンタジーがきらい」という姿勢でした。
「そもそもファンタジーを作るつもりがないんです。」
「映画の中の時空が現実の時空と通じ合っていてしかるべきだと思うんですね。密室でめくるめく体験を見せて興奮させるとか観客の願望をかきたててそれを満たして「あーよかった」と終わる映画は嫌いなんです。だって映画の中でいくら願望が満たされても“癒される”だけで、現実を生きていく上で何の役にも立たないですよね。*1」
つまり、
「「ファンタジー」としてのアニメーションは、「実人生と交錯しうる」ことなく、「作品の中だけで世界が自己完結」し、観客は作り手があらかじめ引いたレールに乗せられ、次の展開はどうなる?どうなる?とハラハラして終わるだけだ。」
それに対し、高畑監督がもとめるアニメーションは、作品と観客との間に客観性と距離を保ちつづけさせることで、「見る人が頭の中で感じたり考えたりいろんなことを思い、自分に引きつけてあれこれ動いてしまう」ようなもの*2、だということのようです。
これは、常々わたしが漠然と感じていたことだったので、それが見事に文章化されていて、とても感銘を受けました。
観ている/読んでいる間現実を忘れられる作品に没入することで一時の逃避を楽しむような作品も息抜きのためには必要ですが、そういう作品ってあとから思い返すことがなく、しばらくたつとストーリーすら忘れてしまうので、そういう作品を心から「好き」と感じることはわたしはありません。
現実を生きる力を与えてくれる、おおげさに言えば人生と真正面から向き合っているような、そんな作品とこれからも出会いたいものだなーと思いました。
「いまのすべては 過去のすべて」
いのちの記憶 【かぐや姫の物語・主題歌】 生演奏 TV Ver. 歌詞付 320kbps - YouTube
「かぐや姫の物語」は、まだわたしのなかで消化しきれていませんが、これからも繰り返しみて、現実生活のなかであの世界のなかの姫の成長や世界の美しさを繰り返し思い返していきたいなと思いました。
とくに圧倒されたのは桜のシーン。春の訪れを喜ばずにいられない原初的な衝動、桜の花には特別な力があるように思います。
そんなわけで(こじつけ)、今年のお花見の記録です。桜が咲くと、外でご飯を食べずにはいられない!
↑買ったハムがメインの回。こちらで調達。
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あいにくの雨で室内花見になった日。
職場近くの公園で、突発花見だったので、家にあるものだけでつくったサンドイッチ。
振り返る間もなく過ぎた4月、5月…
娘は保育園生活3年めにしてはじめて担任の先生が変わり、そのことがかなりショックだったようで(ちょうど人見知りがまた激しくなっていた時期だったので)、また、いわゆる「幼児クラス」にあがったことで、「何でも自分でやりましょう」という方針に着いていけなかったのもあり、4月5月は荒れ狂っておりました。
わたしも春特有のそわそわする感じが少し苦手なのですが、娘も新しい変化にいろいろ思うところがあるのだなあと痛感しました。
春の遠足、通算3回めのお弁当はおいなりさんにしました。